安易な自然再生は破壊に匹敵する場合があることを知るべきだ

草木があれば街の公園でも「自然」と呼ぶ人が多いが、それが植えられたものや人が手を入れて管理しているものなら正確には「自然」ではない。それは「人工の緑」だ。

いまアポイ岳の高山植物群落再生計画とかいうものが進められているが、現在進められているやり方に町の諮問機関が見直しを求めている。

都合のいい環境・景観を作ろうとしているのならそれは自然の「再生」ではなく「破壊」に繋がる。人工的に「再生」を目指すのなら諮問機関が言うように遺伝的特性を乱さない方法で栽培対象種を拡大することが必要だ。そして注意深く準備を行わなくてはならない。

なぜなら、同じ種類の木でも、そこにあったものと、遠くから持ってきたものは同じではないからだ。自然の「再生」を目指すなら、そこにある草木の子孫を、自然と同じように草木に競争させ、自然の中のそれぞれの役割を果たさせるような工夫をすべきである。「あの奇麗な木が枯れたから植えよう」という感覚なら何もしない方がいい。人間の影響ではなく自然に枯れたのならそれが自然だからだ。人間の影響なら、植えることを考えるよりも枯れた原因を取り除くことが重要だ。

自然の中の競争は、強いものが勝つという単純なものではなく、それぞれの役割を担って生きるという側面について考えなくてはいけない。成長が早い種は遅い種に日や風の影を提供する。その陰のおかげで生き残る種もある。影になって枯れる種もある。自然とはそういうものだ。

「再生」を目指すには「自然」の中のそれぞれの役割は何かをもっと考えないと取り返しのつかない「破壊」を行ってしまう。
岡村先生が研究してきた「生態学的混播・混植法」の中にもそのヒントがあると思う。興味があったら検索してみてください。

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