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ecoって宗教だったんだ

少し前にジョークのつもりで言って自分自身納得した言葉。「ecoって宗教」
宗教には申し訳ないたとえだが、まさに的を得ていると自画自賛している。

ecoなことを「行う」ことが目的で、本当に環境のためになっているかは見えていない。信じて行っているだけで疑って考えていないからだ。

本当はある結果を目指して、そこへ辿りつくための手段が多々あるはずなのだが、行うことが目的になってしまっているためだ。
よく周囲で聞く「再生紙を使わなくてはならない」「白色度70%以下を使いなさい」「白い紙を使うと”今時”みたいに言われる」が良い例だ。

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原子力発電について思うこと

今回の震災で原子力に対する非難と反対が声高く叫ばれています。事故については非難されるべきでしょう。確かに今回の事故はなんとしても避けなければならなかった事だと思います。

私は原子力推進派ではありません。最近まで材料関係の開発を行ってきた技術屋なので技術的には門外漢です。しかし技術屋なのでヒステリックに反対のみを叫ぶことはできません。

もう20年以上前に「原子力は必要なのだろうか」と友人の技術屋と何度も話したことがあります。当時と今では状況は変わってはいますが、今でも当時と同じ意見を持っています。「今は無くてはならない」です。

ここに2つの数字があります。日本国内の発電量の統計です。

【発電所による発電量】
火力 134.9ギガワット(59.1%)
原子力 48.8ギガワット(21.4%)
水力 43.9ギガワット(19.2%)
その他 0.5ギガワット(0.2%)
計 228.1ギガワット
資源エネルギー庁 電力調査統計 発電所認可出力表 (平成22年12月)

【自家発電による発電量】
火力 53.8ギガワット(89.2%)
水力 4.4ギガワット(7.3%)
風力 2.1ギガワット(3.5%)
計 60.3ギガワット
資源エネルギー庁 電力調査統計 発電所認可出力表 (平成22年9月末)

原子力の発電量を見て「2割なら節電すれば無くてもいいじゃん」という見方もあるでしょう。2割という数字だけ見れば、今現在はそれも正しいかもしれません。
注目しなくてはならないのはその上の火力です。石炭・石油・ガス等の化石燃料を燃やしているのが火力発電です。

化石燃料はもう枯渇するのが見えている資源であり、燃やす以外に繊維やプラスチック製品などの石油製品類にも使われています。
さて燃やし尽くしたら次はどうしましょうか。また、燃やして生まれる二酸化炭素などはどう処理したらいいのでしょうか。

「代替エネルギーの風力や太陽光がもう実用化してるじゃないか」という人もいるでしょう。確かによく目にするようにはなりました。
ではどれくらいのシェアを持っているか考えたことはありますか?
また、風任せ天気任せの供給が不安定なエネルギーに頼ることの怖さは考えていますか?

自然エネルギーと呼んでいる地熱発電、風力発電、太陽光発電は前のデータの【発電所による発電量】の「その他」に分類され0.2%しかありません。

現在私達が目にする風力発電の多くは前のデータの【自家発電による発電量】に分類され3.5%に過ぎず、全体の0.7%でしかありません。

この読売の記事にもあるように未だ発展途上の技術なのです。
『燃料電池、停電時使えず…太陽光も発電量不足』Yomiuriオンライン
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110330-OYT1T00539.htm

「石油が無くなる頃には代替のものが出来あがってるさ」と言って笑い飛ばしますか?

私の「管理を強化して安全性を高めて次代のエネルギー技術を確立できるまで使い続けなければならない」という考え方は間違っているのでしょうか。

四十の終わりにして目覚めた

というわけではないのだが、数年前から町内の子供会のお手伝いをしている。
自分の子供は子供会を卒業したが「子供がお世話になったお礼に」という気持ちである。

一昨年の秋から小樽築港ベイエリア活用促進実行委員会という長い名前の会のボランティアも始めた。
4年前からいかだレース大会でお世話になっているので「そのお礼」のつもりである。

年をとって地域の繋がりについて考えることが多くなったということもあるが、子供たちが手を離れていって時間が出来てきたというのもあるかもしれない。妻も笑って送り出してくれるという環境もあるのだろう。

数年前に傷めた膝が疼く時もある。運動不足で力自慢だった頃よりもだいぶ腕や腿も細くなった。が、まだまだ体力的にはなんとかなるだろう。もう少し自分が住む地域の「元気」のために頑張ってみようと思う。

これが今年の私の抱負である。

「モッタイナイ」野菜や魚たち

最近姉の家の近所の農家の方で引退する方が増えてきました。高齢になって商売として続けるのが大変になったということです。

農家の方は仕事としてはやめても自家用に作り続ける人が多いものです。作りすぎたとか出来が悪いとか言って姉の家にもらったものが我が家にも流れてきます。姉と旦那の2人暮らしなので余るそうです。

そういう貰いものは「ありがとう!」と気持ちよく貰うことにしています。何せ私も含めて大食家族なので芋でも大根でも雑魚でもうれしいのです。

昨日はギスカジカとスケソウダラを数匹づつもらいました。聞くと漁師さんが売れないからと投げよう(捨てる、の北海道弁)としていたところに姉の旦那が通りがかったそうです。コッコ(卵、これも北海道弁)だけ取って身は捨てているらしいです。妻も私も口を揃えて「もったいない!」です。

農家の方にもらう芋や大根も”す”が入っているものや曲がっているものが多いですが切れば同じ。どんな種類の魚だって、大きかろうが小さかろうがそれなりに料理すれば美味しく食べられます。

ニュースで今年の猛暑で曲がったサツマイモを「捨てなきゃなんね」と農家の方が言っていたが、少し安く売って頂けるなら喜んで買います。実際、100円で買ってきた細長いサツマイモはタジン鍋で焼いて子供たちのおやつになりました。

農協や漁協が流通の規格に入らないものを流さなくなったために捨てられていることは意外にニュースは取り上げてくれません。十分に食べられるものが「形が変」「大きい」「小さい」というだけで毎年大量に捨てられていることをほとんどの人は知りません。たまに採れすぎて大規模に廃棄するときだけ目にするだけです。そして曲がっていないキュウリや大根を高い価格で当然のように買っているわけです。

「モッタイナイ」が環境保護のキーワードのように使われていますが、もっと本来の「モッタイナイ」をみんなが感じるべきだと思います。そしてそれらのものが意外に美味しいことに驚いてみてください。

はいけい、にんげんの皆さま。

私は子供の頃からいつも傍らに犬や猫がいました。昨年Bettyが亡くなり、今は猫が3匹。家族として死ぬまで飼い続けるというということは、私にとって決意とかではなく、ごく普通のことなんです。

「はいけい、にんげんの皆さま。」というサイトのトップには「動物愛護センター(保健所)より。翌朝にはもうこの世にいないかもしれない犬たちの最後の叫びです。」と書かれています。私はこのページを見て言葉を失ってしまいました。

右のメニューの画像をクリックしてください。メッセージを読むことが出来ます。下の「はいけい、にんげんの皆さま。」をクリックするとサイトへ行けます。

流行の「里山」

 昨日は同窓会関係者と総会の打ち合わせに行ってきた。その後の会食中に「里山を・・・」といった話題を出してきた先輩がいる。私の数期上のコンサル業の方だ。

 話しているとどうも話がかみ合わない。どうも「里山」と「自然の山」とを混同しているのだ。私自身、もう二十数年前から里山に興味を持って見て歩いた時期もある。好きで何度か訪れている土地もある。

 里山は決して「自然」ではない。人間の手が入った、元々は「自然」の産物なのだが、長い間人の手が入り続けたことによって「人工」に近くなった存在なのだ。植林の林や森を「自然」とは言わないのと同じくらいに「人工」なのだ。人工的に作った公園の緑を「自然っていいね」と言っているのと同じなのだ。

 自然との決定的な違いとして、人による管理が無ければ存続できないという点がある。手を入れ続けなければ里山も植林された木々も荒れてしまうのだ。自然の森は違う。それ自体バランスのとれた存在で、人の手を入れることは自然のバランスを壊すことになるのだから。

 どうもマスコミのいい報道や評論家連中のいい加減な情報で間違った理解をしている人が増えている。いまさら話題にして騒いで欲しくない。どうせまた忘れ去ってしまうのだろうし。

何度も繰り返すな!

日高山系遭難 細心の注意あってこそ(北海道新聞 社説 8月20日)

また山の事故、というより記事にあるように今年は異常なまでの多さだ。
トムラウシの教訓は生かされていない。トムラウシ自体それまでの教訓を生かさなかったから起こったのだ。
教訓を生かさない者達はまた繰り返し遭難するのだろう。
死ぬ者は勝手に行くからいいのだが、捜索に出る者の危険や残された者の気持ちは大変なものだ。

このブログでも何度も書いているが「山は管理された公園ではない」牙をむくこともある「自然」が相手なのだ。
だからこそ「引く勇気」と「山は逃げない、また来れば良い」と思う余裕がない者は踏み入れてはいけない場所なのだ。

私が行くような低い山でも天候の急変や体調で何度か中断したことがある。どんな場所でも死ぬ危険はある。自然は万人に平等である。自分は例外という考え方は通らないのだ。

最近流行のエコ

「オーガニック食品でかえって肥満、なんで? 米大学研究」という朝日新聞の記事があった。
「再生紙は高い。なんで?」と似ていなくもない疑問だ。
言葉の意味を取り違えてというよりも、都合の良い知識しかないだけのことだ。

高速道路を無料化すれば無駄なガソリンと税金が消費される。
古く「エコでない」という車を買い替えることで一部の企業は潤い、民衆の金と国民の税金は浪費される。
再生紙を使うことで無駄な糊とエネルギーが消費されるが木は増えない。

世の多くの民に、車1台製造するのにどれだけの「エネルギー」が使われているかは教えないし疑問も持たせない。
「買い換えるとエコ」と一方的に洗脳するだけだ。疑問を抱くニュースキャスターは居ても特集番組やキャンペーンまでは組まれない。

紙を使うことで木が切られる。だから木を切る量を減らすために紙を再生して使う。
それは半分くらいは正解だ。でも木は増えない。ではどうする?
答えは簡単だ。木を植えなくてはならないのだ。そのために切った分の木を植える制度がある。「FSC森林認証」

もう既に流行や格好のためのエコの時代は終わっっている。
次の世代のために真剣に環境のことを考えなくてはならない時代がもう来ている。

また大嫌いな聞屋の記事

「イカロス」(6月18日北海道新聞社 卓上四季)

全般的には好意的な記事なのだが結びの段落の中にこういう文がある。「太陽の光で進む帆船の計画が、向こう見ずだと思えなくはない。」
記事全体として好意的に読めば読むことも出来るが、この一文に記者の気持ちが見え隠れする。

人の言葉を都合よく切り取って批判している側の人間なのに自分の言葉が切り取られることには考えも及ばないのだろう。
前後の文章から考えても記者の正直な気持ちを書いてしまったと読める。好意的に書かなくてはと書いていたがやはり自分の気持ちを書いてしまったようだ。
こういう程度の低い文を朝から読んでしまったことを後悔している。

太陽からの風(The Wind from the Sun)

「イカロス「順光満帆」、宇宙で帆広げる 加速を検証へ」

この記事を見てアーサー・C・クラークの「太陽からの風」(The Wind from the Sun)を思い出した。途方もなく大きな帆に太陽光を受けて宇宙空間を疾走する太陽ヨットレースを描いた氏の1972年の作品だ。

出版社の記録を見ると日本での出版は1978年とあるので、その年に新刊を買って読んだはずだ。
地球を何周かして加速し、地球の重力圏を離脱して月へ向かうレースを題材にしている。
ストーリー的には余り印象はないが、操船する様子とメカニカルな部分が印象に残っている。

もう30年以上前に読んだ作品だが、途方もない夢物語ではあるがいつかは実現するだろうと漠然と考えていた。

なんとその技術が私が生きているうちに実現しようとしている。(レジャーとして使えるものになるまでにはあと何十年もかかるだろうが)
この夢物語の中の技術を実現しようとしている技術者の方々に拍手を送りたい。